東尋坊(福井県)

あらすじ

昔、粗暴なお坊さんが信頼した村人に殺されました。
東尋坊のお話は簡単に言うとこんな感じ。詳しくはこのリンクで。

この話は悲しいけど、以下の文は福井に伝わる東尋坊の昔話をベースにしてます。
福井に伝わるのは、粗暴な東尋坊が仲間の坊主に殺されたって話。そんなに変わらんか。

場所はここ




きっかけ

ずっと仲良くやってたのに、俺だけブロックされた。
俺がいなくなっても、何もなかったかのように続く会話。

悔しかったけど、恨みはしなかった。けど、恨んだほうが楽な気がしたんだ。
それで、福井県民なら誰でも知ってる恨みの話、東尋坊を辿ってみた。
東尋坊って福井の有名な観光地だけど、もともとはそこで殺されたお坊さんの名前が地名の由来。
そのお坊さんの話が昔話として今に伝えられている。

先のリンクでは「とうせん坊」となってるし、他のサイトでは当尋坊になってるし、俺の種本では当仁坊になってる。
まぁ昔の話は解らないから、今に伝わる東尋坊でお坊さんの名前は統一しとくね。

時代背景


東尋坊の亡くなった年は1182年4月5日とされている。
亡くなった年から推定すると、生まれた年は1140年ぐらいだろうか。
平安時代が終わりかけで、武士が台頭してきた頃。
武士が重用され平家が興隆を極め、源氏が台頭してきた頃。

そもそも東尋坊が実在したかの議論もあるらしいけど。
昔話だから実在したことにしておこう。



東尋坊の生まれた場所

生まれた場所は福井県福井市の荒木別所らしい。
ちょうど警察学校や機動隊のある場所。
武力に秀でた東尋坊ゆかりの地に機動隊があるのも、不思議なご縁だ。

おそらく東尋坊がいた800年前にもあったと思われる、荒木別所町にある白山神社
ここで仲間たちと相撲でもとってたのかな。




白山神社から東を見たらこんな感じ。
田んぼと山だけだから、この風景は800年前も同じだったはず。



東尋坊の入山


力が強かった東尋坊は、力だけじゃ誰からも尊敬されないと考えお寺に入ったらしい。
そのお寺が福井市寮町にある勝縁寺とされている。
今でも立派なお寺が残ってた。




東尋坊に関してはいいお坊さんだったという説と、悪いお坊さんだったという説がある。
お寺に入って尊敬される人になろうと考えたなら、良いお坊さんだったんだろうか。

でもさ、実際は根性を叩き直せ!と親から無理やりお寺に入れられた感じはする。
普通は力が強いなら農業を手伝えってなると思うんだけど、お寺に入れられてるんだからさ。

現代でも力の強い人は粗暴な傾向があるから、東尋坊もそんな人だったんでしょう。

比叡山での修業

勝縁寺を出た後、東尋坊は当時は最先端のお寺だった比叡山に入山する。
福井の片田舎から比叡山に入るって、相当努力したんだと思う。
周りのサポートもあったんだと思う。だから、頑張った良いお坊さんだったんだと思うんだ。

さすがに比叡山までは行けなかったので、写真は省略。


平泉寺白山神社での生活

比叡山を卒業した後、東尋坊は福井で一番大きかった平泉寺に入山する。
ともに天台宗で、密教のお寺。加持祈祷とかまじないとか、山伏さんとかもこの宗派かな?

平泉寺は北陸の白山をお祀りするお寺&神社で、白山修行道の入り口になっている。
個人的には石川の白山神社が表で福井の平泉寺が裏なイメージがあるけどね。
石川の白山神社は明るいけど、平泉寺は暗いのよ。

今は平泉寺は白山神社と合体して、平泉寺白山神社という名前になってる。

平泉寺白山神社の参道はこんな感じ。



参道からして暗いのよ。

で、平泉寺白山神社に伝わる、東尋坊が住んでた家の跡と伝わるところ。
今はアイスクリーム屋さんになってたよ。



もう少しいくと平泉寺白山神社なんだけど、時間の都合で今回は鳥居だけでパス。
今後、何度も出てくるだろうから平泉寺白山神社は今回は省略。



参拝者に自説を力説する強い人がたまに現れるってすごいよね。
とりま宗教的にはスゴいとこらしいよ。興味ないけど。


東尋坊が殺された日

そして運命の1182年4月5日。

その日は越前海岸の景色の良い岩場にお寺のみんなでピクニックに来てたらしい。
あんまり天気もよく、景色もいいし、いつもケンカばかりしてた寺のみんなも今日はニッコニコ。
たくさんお酒を勧めてくれたから、嬉しくなって東尋坊はお酒をたくさん飲んじゃった。

で、千鳥足になるぐらい酔っ払った東尋坊をお寺の仲間がどーん!と崖から突き落としたんだってさ。
不意をつかれた東尋坊は近くにいた見習い坊主二人を掴んだものの、一緒に崖下まで落ちて亡くなったらしい。

それからしばらくは暴風雨と雷が止まなかったらしい。
平泉寺にも雷が落ちて火事でお寺が焼けたとか。

これは東尋坊の祟りだと人々は言い、それからその崖を人々は東尋坊と呼ぶようになったんだとさ。









俺の見解


東尋坊の平泉寺での立ち位置はいろんな説がある。
1、粗暴で寺や地元民からも嫌われていた
2、平泉寺の僧が兵僧となるのを諌めたため、寺から嫌われていた

いずれにしても寺からは嫌われてたみたい。
だけど地元民には好意的な昔話が残ってるから2の説を信じたいんだよね。
まぁ史料はお寺のものしかないから、歴史学者は1の説を取らざるを得ないだろうけど。

そもそもさ、1の説の場合、東尋坊が800年後の現代まで名前を残さないと思うんだよね。
だってみんなから嫌われてたやつが死んでも誰もなんとも思わないじゃん。当然の報いって思うよね。

けど実際は東尋坊の祟りを畏れて未だに名前が残ってる。
祟りを畏れるってことは、当時の人々に後ろめたい気持ちがあったんだと思うのよ。
良い人を殺した後悔の念が恐怖を呼んで、自然現象ですらも祟りと感じさせると思うんだ。

だから東尋坊は争いを好まない優しい人だったんだと俺は考えてる。
優しい人じゃないと自分を殺すような人とピクニックにいかないよ。
そもそも殺されたんじゃなくて、突風に煽られた事故だったのかもしれないけどね。もう真実は解らんけど。

写真は福井で一番高い建物、東尋坊タワー(50m)


俺が勝手に描く東尋坊は、豪快なオッサンのイメージ。
昔からケンカに強かったけど、反省して頑張って勉強して日本最高峰のお寺で学問を収めた。
で、地元のお寺に就職したら同僚と対立したけど地元民からは愛される人。

その後、平泉寺は一向一揆で地元民に焼かれてしまうんだ。東尋坊から400年も後の時代の話だけど。
だから平泉寺は昔から地元民に疎まれてたと思う。
じゃなければ今でも永平寺みたいにお寺は残ってるよ。

そして大野の勝山嫌いもこの平泉寺が絡んでると思うんだよね。


伝承では東尋坊は殺された後も海から東にある平泉寺を恨んでいたらしい。
だから東をずっと尋ねている坊主ということで、東尋坊との漢字になったと伝えられている。

ちなみに東尋坊から平泉寺って厳密には南東なんだけどね。

いやぁ、便利な時代です。



結末

それで冒頭の話。ブロックしたヤツを恨みたいって話。
実際さ、恨んだとこで相手に死んでほしいとか思わないんすよ。
だって一緒にいて楽しかったもん。
きっと俺が相手を苦しめてたからブロックされたわけで、俺が恨む理由はないんだよね。

実際、相手のログとか読むと俺の恨みを怖れてるみたい。
怖れるぐらいならブロックせず直接言えば良かったのにね。

きっと東尋坊も殺される寸前、俺と同じことを思ったから俺を呼んだのかもしれない。



帰り道に着いたとき、一本だけ大きな雷が落ちた。
きっと豪快な東尋坊が俺を見送ってくれたに違いない。


コメント

  1. はじめまして。勝縁寺に少しご縁がある者です。
    言い伝えでの話ですが。
    当仁坊(東尋坊)は勝縁寺の僧だったのは間違いないようです。
    後に延暦寺と平泉寺に移られましたが、定期的に勝縁寺へ参拝しており阿弥陀如来を深く信仰していたとか。
    事件後に亡霊となり平泉寺を焼き尽くした後、勝縁寺にて供養をお願いしにきたとか。
    勝縁寺では報恩講の際に、一時的に天候が荒れたり突風が吹くと言われます。

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  2. はじめまして。勝縁寺に少しご縁がある者です。
    言い伝えでの話ですが。
    当仁坊(東尋坊)は勝縁寺の僧だったのは間違いないようです。
    後に延暦寺と平泉寺に移られましたが、定期的に勝縁寺へ参拝しており阿弥陀如来を深く信仰していたとか。
    事件後に亡霊となり平泉寺を焼き尽くした後、勝縁寺にて供養をお願いしにきたとか。
    勝縁寺では報恩講の際に、一時的に天候が荒れたり突風が吹くと言われます。

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  3. はじめまして。勝縁寺に少しご縁がある者です。
    言い伝えでの話ですが。
    当仁坊(東尋坊)は勝縁寺の僧だったのは間違いないようです。
    後に延暦寺と平泉寺に移られましたが、定期的に勝縁寺へ参拝しており阿弥陀如来を深く信仰していたとか。
    事件後に亡霊となり平泉寺を焼き尽くした後、勝縁寺にて供養をお願いしにきたとか。
    勝縁寺では報恩講の際に、一時的に天候が荒れたり突風が吹くと言われます。

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